2013年06月23日
②ひめゆりの塔にて~68回目の沖縄慰霊の日に寄せて
今回の記事は、私のもう一つのブログ「まあるくいきたい」の過去記事、
ちゅら島ルーツを訪ねる旅~その⑦「ひめゆりの塔にて」からの転載です。
明日は、我が家の末っ子あーちゃんの中学校の入学式です。
さっきも、セーラー服を着て鏡の前に立ち、
あれこれ入念にチェックしてました(*^_^*)
初めての制服がうれしいんですね~♪
いつまでもオボコイやっちゃ~、と思ってたんですが、
セーラー服の後ろ姿には、
子供っぽさが抜けて・・・ちょっとハッとしてしまいました。
六十数年前の春、夫の母も
生活が苦しいため諦めていた進学の夢が実現することになり、
憧れのセーラー服に胸ときめかせていたのでした・・・
でも、入学後すぐに戦況が厳しくなり始め、
セーラー服は間もなくへちま襟になり、
それからすぐにモンぺ姿で通学することになってしまったのだとか。
母校は「沖縄県立第一高等女学校」
・・・そう、
あの”ひめゆり学徒”の少女達のいた学校です。
看護要員として戦地に駆り出されたのは、
夫の母よりひとつ年上の上級生たちだったのだそうです・・・
沖縄の旅3日目、
平和祈念公園を出てから、「ひめゆりの塔」を訪ねました。
慰霊碑の下にあるのは、
米軍に追われ陸軍病院壕を撤退後身を寄せていた「伊原第三外科壕」
突然の「解散命令」を受けた翌朝、
ガス弾が投下され、38名の生徒と4名の教師が亡くなった場所です。
ひめゆり部隊に動員されたのは生徒222名、教師18名。
3月の動員から6月の突然の「解散命令」までの間に
19名が犠牲となり、
「解散命令」後に米軍の包囲する戦地に放り出されてからは、
わずか数日の間に100余名もが亡くなってしまったそうです。
沖縄戦の悲劇の象徴として有名な「ひめゆり学徒」ですが、
他にも多数の「学徒隊」が動員され
2000名余もが亡くなっていて、
「健児の塔」他、各地に多数の学徒慰霊碑があるのだそうです。
「ひめゆりの塔」の裏に、
二十年前、夫と訪れた時は無かった「資料館」ができていました。
「ひめゆり平和祈念資料館」
ここでも、じっくりと見ることができるように、
娘たちとは展示室前で解散、集合時間無しの自由行動。
「展示の内容」
第二展示室には、
戦地に携行して行った
生徒たちの持ち物などが展示されていました。
小さな可愛らしい動物の人形や
流行りだった「少女の絵カード」など
いかにもこの年頃の女の子らしい”遺品”に
胸がつまる思いでした・・・
第三展示室では、
解散命令後の「死の彷徨」の悲劇を
米軍の記録フィルムと生存者の証言映像で伝えていました。
ひめゆり学徒の生き残った人達の中には、
友を助けられず生き残ってしまったことへの罪責感から
今でも何も語れないでいる方も多いのだそうです。
「生きている」ことが奇跡であるような、こんな凄惨な状況の中を
夫の母も生き延びてきたのか・・・・
逃げ場を失い、捕虜になるまで
アダン(熱帯植物)の葉蔭に砂を掘って何日もじっと隠れて、
末期の水を取ろうとしてそのまま果てた遺体の間を流れてきた
あぶくの浮いた臭う水を飲んで命つないだという、
夫の母の体験談。
あの水と、人の体の朽ちる匂いは
脳裏に焼き付いてはなれないと。・・・・
ガソリンをかけられて火あぶりにされる日本の下士官、
畑や壕で湯気をあげて朽ちていく人・・・
傷から出たウジを手で掻き落とす人・・・
米兵の接近に追い立てられパニックになって逃げようとした時、
両手をやけどした「母親」に、
3、4歳くらいの子供を「負わせてくれ。」と頼まれたものの、
括るヒモがどうしても見つからず、
仕方なく子供に母親のモンペの端を握らせて、
「放したらだめ!」と言って
そのまま他の人を追って逃げたそうです。
あの時の子供が、母親と無事に逃げられたのか・・・
それが今も忘れられないでいるのでした。
「うちは、あの時自分は死んだもんやと思とる。
後の人生は、おまけみたいなもんや。
やから、どんな苦労しても生きてこれたんやと思うで。」
・・・・夫の母の言葉が思い出されました。
第4展示室の壁には、
200余名の犠牲者の遺影が
ぐるっと部屋を囲むように掛けられていました
一枚一枚、
名前と、性格や、好きだった学科やスポーツなど、
その子の学校生活でのエピソードと、
死亡した日付とその時の状況が書き添えられていました。
あーちゃんは、
端から順に読み進みながら一枚づつ釘付けになっていました。
自分と変わらない年頃の少女達の遺影に
どんなことを感じていたのでしょうか・・・
セーラー服の笑顔が囲む部屋の中央には
生き残った方たちの証言集が並んでいました。
ひとつひとつ、
時間をかけてじっくりと読み込んでいる娘たち・・・
本当は、この日のうちにもう一か所寄りたい場所があって、
少し時間も気にはなっていたのですが、
せかす気になりませんでした。
私は、遺影にも、証言集にもずっと・・・
窓から明るい花園の見える「回想の部屋」に抜けてもしばらく、
涙が止まりませんでした。
セーラー服の遺影は、
はつらつとした明るい、夢見るようなやさしい笑顔ばかりでした・・・
どんなにか、生きていたかったでしょうね・・・
資料館を出て、
前を歩く娘たちの後ろ姿を見ながら、
学生の頃に見た映画「ひめゆりの塔」に、
大好きなさだまさしが添えた主題歌を思い出しました・・・・
「しあわせについて」
どうぞあやまちは 二度と繰り返さずに
あなたは必ず しあわせになってください・・・
「彼女達」が失ってしまったたくさんのものを
娘たちが、
からだいっぱいに宿して輝いているように見えました・・・
私たちの穏やかな暮らしは
あまりにも多くの犠牲と祈りと願いの上に
築かれたものであるということを
忘れないで生きて行きたいと思います。
そして、その犠牲や願いに報いるために
今、何をしてゆかなければならないのか
考え続けてゆきたいと思います。
合掌。
昨年沖縄に行ったとき気がついた、車の【Yナンバー】のこと。親戚は『歩行者がひかれても何の保証もしてくれない』と嘆いてました。
今も沖縄は日本に守られていない気がして悲しいです。
沖縄は、傷ついたまま・・・癒される間もなく、まだまだずっと傷付けられ続けている・・・
理不尽なことを「仕方ない」と切り捨てようとする人たちに、もっともっとその現状を詳しく知ってもらいたいですね。
私も、沖縄を訪れた時感じたこと、義母の話を聴きながら感じたことを忘れないようにしていきたいと思います。
